山を掩ふ計りの月の出にけり      松瀬青々



  《 やまをおおうばかりのつきのいでにけり 》



 季題は〈月〉で秋。〈春の月〉〈夏の月〉〈冬の月)〈寒月)など、四季を通じて月は詠まれるが、単に〈月〉といえば秋の月であるという約束事が、日本文学の伝統によって定められている。中秋の名月を賞でる風習からきたものである。したがってこの月も、澄んだ大気に大きく浮かび出んとする満月である。

 「山を掩ふばかりの月」とは、かなり誇張した表現であるが、これは月そのものの大きさのほかに、輝やかに顔を出した月の光の明るさをも表わした形容であろう。山の端に月が出て、あたりが明るくなったーーー澄明な秋の月は、そんな感じがするものである。

 月が小さく見える人は現実的で、大きく見える人は夢想家だといわれる。
 〈 月は今大顔にして野にあたる 〉
 〈 薄きるに出がけの月の大きさよ 〉

の作もある青々は、ロマンティストだったに違いない。  ( 和子 )



 少し誇張した趣が感じられるのは、この一句に、「力は山貫き、気は世を掩う」といった漢詩文のような調子が読みとれるからだろう。しかし、おもむろに山上に顔を出した月が、きわめて大きく見えるのは実感であるし、この句もそういった月のありようを詠んだ句であろう。

 青々には「西行賛」として、
 〈 月見してものつぶやける口元よ 〉
があり、また
 〈 月の中に李白・明恵もおはしけれ 〉
の作があり、明月を古人にひき寄せてみるといった句が見られる。しかし、揚句はそれとは違い、純粋に月の出の際の驚くほどの大きさを詠んだものである。そしてその大きさを山を掩うばかりと見てとったのが一句の眼目となった。

 ( 外にも出よ触るるばかりに春の月  汀女 〉
の春月の趣とは明らかに異なる、秋の満月のありようが力強く表わされている一句である。     ( 克巳 )


 昭和7年作。句集『松苗』所収。



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# by chi-in | 2013-10-08 20:38 | 秋の句

ひらひらと月光降りぬ貝割菜      川端茅舎

 《 ひらひらとげっこうふりぬかいわれな 》


 
 季題は〈貝割菜〉で秋。大根や蕪が発芽して小さな葉がひらいた頃、ちょうど貝が口を開いたようなのでこの名がある。最近では「かいわれ」といって、この状態でことさら茎を伸ばしたものが薬味用に一年中水栽培されているが、この句は大根畑の景。

 「ひらひら」しているのは本当は貝割菜。しかし「月光浴びぬ」とありきたりに表現するのではなく、あたかも月光がひらひらと降るように表現している点がこの句のポイントである。否、表現上の操作ではなく、茅舎はひらひらと月光が降ると「観た」のだ。花鳥諷詠の真髄は、じっと眺め入る客観写生を通して、見えぬものをも感じ取り、十七音の器に独自の宇宙を具現することだ。こういう句を誦していると、そう思えてくる。   ( 和子 )



 「ひらひら」という擬態語を解くことが、この句の鑑賞の基本であろう。作者の視点の移動による微妙な変化により月光裡の貝割菜に、ひらひらという動きを見てとったのだと考える。それはまさに月光がひらひらと地上の貝割菜に降り注ぐごとくなのである。

 事実としては、この句、ガラス窓越しの所見という。貝割菜を「ひらひらと」と感じた第一印象が句想の核であるが、その印象を「月光降りぬ」と事実を述べるかたちで固定せしめたのである。天心の月と地上の微細なるものとの感応が茅舎の琴線に触れて生まれた一句。ラ音の多用が効果的。   ( 克巳 )



 昭和8年作。『華厳』所収。



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# by chi-in | 2013-09-12 20:54 | 秋の句

流すべき流燈われの胸照らす      寺山修司


  《 ながすべきりゅうとうわれのむねてらす 》



 季題は〈流燈〉で秋。お盆の十六日に燈籠を河や海に流す風習が各地にある。これはまだ流していない、もうすぐ流す燈籠を詠んだもの。

 流すように仕立てた軽い燈籠を、水辺まで持ってきた。あたりはもう暮れている。火を点けて、水に置くまでのほんの少しの間、流燈の火が自分の胸を照らし出したというのである。

 胸もとを照らし出したほのかな火影は、流燈を手放す前のものさびしい思いを照らしたのである。その火はやがて水の流れに従って、作者の足元から遠ざかってゆく。胸はもとの暗闇に紛れる。しかし、一度照らされたもの思いは、流燈とともにほのかに水辺を漂ってゆく・・・・・。何と感傷的な句であろう。   ( 和子 )



 寺山修司の俳句のテーマとなっているのは、彼が多く書物を通して学びとってきた西欧的な美意識に裏打ちされたものであるが(たとえそれが故郷とか父、母というような土俗的な内容であっても)、この句は流燈といういかにも日本的季題がすなおに作品化された、寺山の句としては少ない部類に属する作品である。

 火を入れた流燈を抱えるようにしている作者の胸のあたりを、ゆらめく火影が照らし出す。「われの」といってはいるが、景としてはむしろ客観性が感じられる。これを、「汝の胸照らす」といってしまっては感傷的に流れてしまうだろう。その辺の工夫が見られることに注意しておきたい。

  蝶どこまでもあがり高校生貧し
  夏河に列車は車輪より止まる
  玫瑰や少年の日も沖恋し


など草田男や誓子の影響を色濃く受けながらも、揚句のような一面もさらりと覗かせた寺山であった。   ( 克巳 )




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# by chi-in | 2013-08-08 20:24 | 秋の句