朝顔の雙葉のどこか濡れゐたる    高野素十

≪あさがおのふたばのどこかぬれいたる≫


 季節は<朝顔>で初秋。本来、花を意味するが、この句の場合は芽を出したばかりの双葉を詠んでいる。
 この句の背景には、朝露に湿った黒土を感じる。黒々とした土に凛とひらいた双葉。そこに水滴がついているというのではない。双葉のありようそのものに、濡れた感触を覚えたというのである。
 花鳥諷詠を説く際、客観写生を標榜した虚子にとって、弟子素十の句は恰好の実例であった。自然の一木一草を凝視し、忠実に写生した素十の句は、掲句や、
  
  甘草の芽のとびとびのひとならび  素十

などの作によって「草の芽俳句」と評され、些末主義と指摘されもした。
 人口に膾炙しているという点では、甘草の句こそ代表作といえようが、早春の土手などに甘草が芽吹く様を「ひとならび」と描写して果して自然の様相を写生し得ているかどうか、私には疑問が残る。その点、朝顔の双葉の描写には実感がある。<和子>



「どこか」とは、はっきりとそこというのではなく、何となく、というような意味である。一見トリビュアルな句と思われがちであっるが、やはり、その根底には作者の抒情的な一面がうかがわれるのである。抒情性そのものを旗印にしたグループとは自ずから差異があるが、素十の句が全く主観の発露がない単純な写生句であるとするのはあやまりであるのは、この句を見ても理解できることだろう。対象そのものが些細であることが素十らしいといえばいえるのである。

 しかし、焦点を十二分に絞り切ることによって、描写していない他の要素を読者に想像させるという意味では、やはり素十の持ち味がある。<克巳>
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by chi-in | 2008-08-21 18:10 | 秋の句
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