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大寺の月の柱の影に入る   野沢節子

《おおてらのつきのはしらのかげにいる》

 季節は<月>で秋。「唐招提寺讃月会」と前書があることから、中秋の名月であることがわかる。唐招提寺では毎年名月の夜に、金堂を開扉して月を讃える行事が催される。月光に浮かびあがった天平の甍と伽藍を拝し、月明りのもとで仏像を拝む静かな催しである。
 金堂に向かって左わきに、

   おほてらのまろきはしらのつきかげをつちにふみつつものをこそおもへ   秋艸道人

と彫られた会津八一の歌碑がある。この歌を本歌とした作であることはいうまでもない。「大寺の月の柱の影」までは、八一の歌の言葉がそのまま用いられている。というより、この歌を心に誦しながら、月光の金堂に吸い寄せられていっているような句だ。歌人は、あの八本の円柱の月影を踏みつつもの思いにふけったが、この句は月光によって生じた円柱の影に入り、自分の影、すなわち存在が同化してゆく思いを詠んでいる。  <和子>



 私は秋艸道人の字が好きだ。この歌碑を見たこともある。歌は、悠揚迫らぬ音調であるが、論理的でしかも男性的である。土に敷いた柱の影を踏みつつ物思いにふけるのはやはり男がふさわしい。
 それに対して、この歌を心に置いて詠んだ節子の句は、どちらかといえばやはり女性的である。
 一句は、「の」を三つくり返してたたみこむように進む。しかし、柱の影に自分のそれを紛れこませてしまうという行動はやはり女性的といえるのである。
 柱の影にわが影を紛らせることによって生じる安らぎ、自分という確かな存在を消去することが、かえって本当の自分を意識することにもなるのだろう。エンタシスの柱の歳月は、その月影にも歳月の重さを感じさせる。
 唐招提寺は鑑真和上の尊像のいます寺である。 <克巳>
   昭和50年作。句集『存身』所収。
by chi-in | 2007-09-20 15:59 | 秋の句
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