季題は<糸瓜>で秋。ふつう<糸瓜咲く>だと夏の季に分類されるが、この句の場合、情況から考えて<糸瓜>を季題とするのがよいだろう。実がぶらさがりながら、一方ではまだ咲き続けている花もめずらしくない。
この句は子規の絶筆三句のうちの一句。他の二句は、 痰一斗糸瓜の水も間に合はず をととひの糸瓜の水も取らざりき 子規 であった。その月の十日頃から最悪の病状となり、自分の死期を悟った作者は、ちょうど死の前日の十八日、この三句を仰臥したままで記した。痰を切るのに効果のある糸瓜の水は旧暦の八月十五日に取るとよいというが、もうとても自分には間に合わない。すでに仏同然と、病み呆けた自分を客観視しているのである。類まれな強靭な精神力というべきであろう。 <克巳> 新聞「日本」に掲載された絶筆三句の前書には「是れ子が永眠の十二時間前即ち十八日の午前十一時病牀に仰臥しつつ痩せに痩せたる手に依りて書かれたる最後の俳句なり」と一文が付されている。この三句を一枚に書いた実物を見たことがあるが、この折の印象は、ああ子規は若かったのだ、ということだった。その筆跡は決して老い衰えた人のものではなかった。むしろのびやかで、最後の気迫をこめて書かれたものであった。数え年三十九歳の死は早すぎる。 「痰一斗」の句は、悲愴であり、「をととひの」の句は、諦観に満ちている。掲句には、どこかユーモラスな味わいさえある。その意味で、最も子規らしい絶筆といえよう。臨死状態にある人の魂が、肉体から浮遊して、仏となった自分を詠んでいるようだ。 <和子> 明治三十五年作 『子規全集』所収
by chi-in
| 2005-08-15 00:00
| 秋の句
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