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翠黛の時雨いよいよはなやかに      高野素十



  《 すいたいのしぐれいよいよはなやかに 》



 季題は〈時雨〉で初冬。この語を私は長いこと通り雨と同意に解していたが、関西に移り住んで、どこからでも低い山々を望む風土に親しむことにより、その本意を見知った思いがした。殊に京都の北山の時雨など、青空が上空に見えているのに、山にかかる雲が雨を降らし、日当たりながらきらきらと注ぐ。まさに「はなやか」の一語に尽きるのである。

 「翠黛」は本来みどりのまゆずみ。転じてみどりに霞む山の端のカーブをもいう。『平家物語』の大原御幸のくだりには、寂光院の周辺を描いて「緑羅の垣、翠黛の山、絵にかくとも筆も及び難し」とある。これによって後世、寺の谷あいの林を緑羅の垣と称し、向かいの山を翠黛山と呼ぶようになった。

 この句を鑑賞する上で、背景を寂光院の辺りとすることは、「寂光院」という前書からも、時雨という季題の本意からも、叶っていよう。   ( 和子 )



 『平家物語』の哀話で知られる建礼門院徳子が庵を結んだのが寂光院であるが、実は現在知られている寂光院は後になって営まれたものであると土地の俳人に教えられた。その近くにある本来の寂光院の跡という場所を案内されたのだが、かろうじて、庵のあとと知られるほどで、草木が生い茂るばかりであった。しかし、そのあたりの山々や谷や田んぼのありさまは、『平家物語』の昔をしのばせるに十分であった。

 『時雨』という季題を「はなやかに」というとらえ方をしたところに、この句の魅力がある。勿論、寂光院あたりの小径からの眺めである。時雨の雨が降りまさるのと同時に日差があたりを明るく照らし出す。きらきらと光る雨の糸。明と暗の美しい対比が自ずと一幅の絵巻の世界を現出する。  ( 克巳 )


 昭和2年作。『初鴉』所収。



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by chi-in | 2013-11-19 18:03 | 冬の句
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