目つむりていても吾を統ぶ五月の鷹     寺山修司



  《 めつむりていてもあをすぶごがつのたか 》



 季題は〈五月〉で夏。「鷹」は冬の季題ではあるが、この句の場合、わざわざ「五月の鷹」という性格づけをしている。この「五月」も、日本の伝統的な「さつき」ではなく、西欧の詩人が「なべての蕾花とひらく いとうるはしき五月のころ」と歌った「五月」であろう。

 詩ごころが湧き、若き血が騒ぐ五月。木々の青葉が輝き、風薫る五月。若者の胸に羽搏くものがある。何をしていてもその存在が今の自分を支配している。「五月の鷹」は、肉眼で見えるものとして描かれているのではない。若者の心に思い描くあこがれの象徴として、表現されているのだ。自分の自由を奪われるほどにあこがれやまぬ雄々しきものの象徴として。
 
 この句でひとつ気になるのは、表現は文語であるのに、表記は現代仮名づかいである点だ。無論、作者は意図的にこうしたのだろうが、私には和楽器の楽譜を五線譜と音符で表記するような違和感があって、どうもなじめない。  ( 和子 )



 最初の作品集である『われに五月を』の序詞として「五月の詩」が巻頭に掲げられている

 「・・・二十才、僕は五月に誕生した/・・・いまこそ時 僕は僕の季節の入口で/はにかみながら鳥たちへ/手を上げてみる/二十才 僕は五月に誕生した」 

 寺山が実際に生まれたのは昭和十年十二月十日(『俳文学大辞典』)であるから、この詩の五月誕生とは彼の詩人としての出発と見るべきであろう。しかし、その死が昭和五十八年の五月(享年四十七歳)であることを思うと、寺山にとって五月とは誕生であり涅槃であったともいえるだろう。

 この句、「目つむる」の主語は、作者とも鷹とも考えられる。しかし、作者が目をつむるととると、鷹そのものが見えてこない。たとえ檻の鷹でもよいのである。瞑目しているにもかかわらず作者の胸には、大空を飛翔する鷹が印象される。その静かさゆえに、いっそう作者の憧憬をかきたてる鷹のありようなのである。  ( 克巳 )



 
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by chi-in | 2012-05-09 21:08 | 夏の句
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