昃れば春水の心あともどり       星野立子

 ≪ ひかげればしゅんすいのこころあともどり ≫


 季題は〈春水〉で春。川でも池でも湖でもいい。日が差している時は満々と湛えられた水面が柔らかく照り、もう春の水と見えたのだ。暦の上では既に春。風は冷たいが日差の明るさに紛れもない春を感じる、そんな春浅い頃のことである。ところが、日が雲に隠れてしまうと、今までの春の水と見えていたのが、急に寒々しいものに変ってしまった。

 「春水の心」とは、単に眼前の水を春水と感じた作者の心だけではなく、水自体の心でもあるような詠みぶりである。キラキラと艶めいて光っている水に、春らしい心を感じ取り、作者の心もその水のきらめきに乗ってひとつ心になっていたのだろう。

 「あともどり」の表現は、ああもう春、と先へ心が動いたからこそ浮かんだ言葉といえよう。実際はまだ本格的な春にはほど遠いと知った時、心弾む夢からさめたような、現実に引き戻されたようなつまらなさを覚えているのである。なまじ心が弾んだゆえの淋しさともいえようか。   ( 和子 )



 「昃る」は、かたむく、昼をすぎる等の意味の漢字であるが、そうするとこの句の「昃れば」は、「日が傾くと」という意味になってくる。そうとれないことはないのだが、ここはやはり一時的に日が雲にさえぎられて、「日が翳る」ととりたい。「ホトトギス」の俳人達が「昃る」を日が翳る意味で使っているのを立子も踏襲したのであろう。「日」と「仄(ほのか)」という字面からそういう独自の連想を得たとしても不思議はあるまい。勿論、慣用的な用法である。

 日があたってきらきらと光をたたえていた流れが、日がさえぎられると、すうっと潮が引くようにその水面の色を暗く変化させ、たちまち寒々しい流れに戻ってしまう。「春水の心」とは、春らしい水のきらめきをさすと同時に、作者の弾んだ心情をも表現する。「あともどり」に、ああ本当の春はまだこれからなのだという嘆息がこめられている。  ( 克巳 )


   昭和8年作。 『立子句集』所収。
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by chi-in | 2010-02-18 18:20 | 春の句
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