鳥わたるこきこきこきと缶切れば      秋元不死男


 《  とりわたるこきこきこきとかんきれば  》



 季題は〈鳥わたる〉で秋。鳥が渡って来たことと、缶詰を切る作者の行為とは何の脈絡もないのだが、たまたま缶詰を開ける音をたてている時に、渡り鳥に気づいたという取り合わせは、どこか俳句的だ。それは句の中心をなしている「こきこきこき」という印象的な音のせいだろうかーーーー。

 この擬音語の故に、この句は不思議な朗誦性をもつ。缶切りで缶詰を開ける時、私は必ずこの句を思い出す。窓の外の空の広がりを思う。やはり乾いた秋空がふさわしい。

 同じように擬音語や擬態語の生かされている作品として、
  〈 ライターの火のポポポポと滝涸るる 〉
  〈 へろへろとワンタンすするクリスマス 〉
  〈 鳶の下冬りんりんと旅の尿 〉
  〈 退る金魚さらさらと置く首飾 〉

などがある。計算以前の感覚的な冴えを見る思いがする。   ( 和子 )



 正岡子規の句に、
  〈 柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺 〉
という作がある。これは、柿を食っていると、折から法隆寺の鐘が鳴るのが聞こえたという意味であり、柿を食ったから鐘が鳴ったというのではない。

 この不死男の句にも同様なことがいえる。俳句特有の表現である。

 戦後の食糧難の時代であるから、缶詰は貴重なものであったに相違ない。その缶詰を切る時の心の踊るようなよろこびが、「こきこきこき」という擬音にみごとに形容されている。その楽しい一時、ふと作者の視野に映ったのが、連なって飛んでゆく渡り鳥であった。    ( 克巳 )


 昭和21年作。句集『瘤』所収。


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# by chi-in | 2014-10-17 20:35 | 秋の句

さみだれのあまだればかり浮御堂     阿波野青畝


  ≪ さみだれのあまだればかりうきみどう ≫



 季題は〈さみだれ〉で夏。(五月雨)と書き、旧暦の五月に降る長雨だから、現代でいう梅雨にあたる。梅雨は時節を表わす語だが、五月雨は、降っている雨そのものをいう。

 何故ひらがな表記してあるのかを先ず考えてみたい。「さみだれ」「あまだれ」の呼応はいうまでもなく、この句の中七までは、ア行の音と、ラ行の音に満ちている。声に出して誦してみると、雨粒と雨だれの雫が見えてくる。「五月雨」という概念よりも、「さみだれ」という響きを楽しむのが、この句の味わい方なのだろう。

 浮御堂は、近江八景の一つの堅田の、湖中につき出た堂。樋がないので雨だれが直接湖水に落ちる。夥しい雨だれの音に囲まれている堂は、即ち作者でもある。その他の音は耳に入らず、その他の物も目に入らぬ世界。実際、浮御堂に立つと、湖の不思議な静けさと茫洋たる景に取り囲まれ、心が洗われる思いがする。   ( 和子 )



 芭蕉の「堅田の十六夜之弁」に元禄4年仲秋に浮御堂で月を賞でた記事が見え、

  鎖明て月さし入よ浮御堂   はせを

の句がある。浮御堂は海門山満月寺と称し恵信僧都の建立と伝え、堂内に千体仏を祀る。芭蕉の句はとざされている浮御堂の扉を押しあけて、折からの満月の光で堂内の千体仏を輝かしめよというような意である。

 芭蕉が仲秋の名月なら青畝は五月雨、片や浮御堂の四辺の風景が月光に照らされて明らかであるのに対し、こちらは雨にとざされて何も見えない状態。青畝は自注で、去来の〈湖の水まさりけり五月雨)に少しでも及びたいと思ったところからこの句を発想したとあるが、私はむしろ、青畝はひそかに芭蕉の浮御堂の句に双びたつことを念願していたのではないかと考える。   ( 克巳 )



  大正12年作。『万両』所収。



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# by chi-in | 2014-05-15 20:40 | 夏の句

青天に音を消したる雪崩かな     京極杞陽



  《  せいてんにおとをけしたるなだれかな  》



 季題は〈雪崩〉で春。作者の眼前には純白の雪におおわれた山塊が立ちふさがるように聳えている。音の全くない静かな時が流れるーーー。突然、白銀の一角が剥がれるように崩れると、大音響とともに厖大な雪の塊が、白煙を上げて谷を目がけて殺到する。

 まるでスローモーションの画面を見ているようだ。雪が雪を誘い、岩をまき込んでゆくその音は、やがて青い澄み切った空に吸収されるように消え去り、雪面に大きく抉ったような傷跡を残しながら、再び山塊は前よりもいっそう深い静寂につつまれるのである。

 この句は、雪崩という自然現象を、青と白の二色を用いて単純化して描いている。青と白のコントラストは、静と動、静寂と大音響という対立をも暗示しているのである。無駄な言葉を一切用いずにすっきりと表現されているが、この句は、あるいは題詠の句かもしれない。    ( 克巳 )



 この句、私には初めから終りまで音が聞こえてこない。音が届かないほど遠くか、あるいはガラス戸越しか、ともかく全く音のない世界で、雪崩の一部始終を見届けた句として印象した。

 「音を消したる」は、今まで轟きわたっていた音を消したという意にも取れるが、音というものを全く消した雪崩、とも取れよう。「たり」は動作の完了でもあるが、状態の存続でもある。

 すると、それほどの遠景となるので「青天」が広がってくる。雪煙も見えてくる。それでいて作者にも読者にも、何ら危険は迫らないのだ。   ( 和子 )



 昭和12年作。句集『くくたち』(上)所収。



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# by chi-in | 2014-04-17 20:25 | 春の句