去年今年貫く棒の如きもの   高浜虚子

季題は<去年今年>で新年。<去年>或いは<今年>だけでも季題となる。『後拾遺集』の小大君の歌

   いかにねておくるあしたに言ふ事ぞきのふをこぞとけふをことしと

が、この季題の本意といえよう。

昨日を去年といい今朝を今年という、そんな時の流れの中にあって、貫いているものは変わらない、というのである。それはいわば棒のように変哲もなく、まっすぐで、年が改まったからといって改まることもない。実生活も、信条も、棒のようなものです、と言い放って憚らぬ大人の声が聞こえてくるようだ。このふてぶてしいまでの揺ぎない人生態度には讃嘆を禁じ得ない。 <和子>



虚子の、年の暮の句に、

   年は唯黙々として行くのみぞ
   年を以て巨人としたり歩み去る

がある。いずれも擬人化表現を用いて、去る年を表現しているのが特色といえるだろう。掲句は、時の流れを暗い混沌としたものとしてとらえ、それを貫くようにして太々とした棒のごとき存在を意識しているのである。きわめて抽象的な認識であるにもかかわらず、説得力があるのは、虚子の自信に裏うちされた一句であることによるだろう。

芭蕉の『笈の小文』の中に、

「西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、其貫道するものは一つなり」

という一節がある。すべての芸術の根本を貫くものは一つ、それは風雅であるということだが、この句の棒のごときものに通じる何かがあるように思う。 <克巳> 
          昭和25年作 『六百五十句』所収
[PR]
# by chi-in | 2005-01-01 00:02 | 新年の句

むさしのゝ空真青なる落葉かな   水原秋桜子

季題は<落葉>で冬。武蔵野は関東平野の一部で、埼玉県川越市以南、東京都府中までの地域。「今も武蔵野の面影を残す」という表現がよく使われるが、昔、このあたり一帯は広大な雑木林だった。その自然美を描いた国木田独歩の散文でも知られている。

そういうわけで、我々は「武蔵野」という地名から、果しもなく続く雑木林を思い浮かべる。その上に晴れ渡った初冬の空。そしてとめどもなく降る落葉。乾ききった音をたてて降りつづける落葉は、あくまでも明るい。広大な自然の移り変わりの美しさと、淋しさが満ちている句である。

難しい言葉や言い回しは何ひとつない。きわめて簡単明瞭な、印象鮮やかな句で、子供にもわかる視覚的な作品である。中学生の頃、駅の大きなポスターでこの句を知り、俳句の魅力を教えられたのがきっかけで句作を始めたという先輩がいるが、名句とはそうしたものだろう。 <和子>



上五・中七で武蔵野の真っ青な空を印象付け、下五でその風景に動きを添加している。

それまでの俳句に詠まれてきた落葉のイメージとは明らかに異質な明るさがこの句には横溢している。洋画家がキャンパスいっぱいに青空を描き、そして落葉を描き込んでゆくー。

そのような手法が秋桜子の俳句には感じられる。この句からも、理想的な美を追求しようとする秋桜子の性向がうかがわれよう。”むさしの”というひらがな表記の効果にも注目したい。視覚的韻律とでもいうようなおもしろさが感じ取れるのである。 <克巳>
          大正15年作 『葛飾』所収
[PR]
# by chi-in | 2004-12-15 00:00 | 冬の句

石蕗黄なり文学の血を画才に承け   富安風生

<石蕗>は<つわぶき>とも呼ばれる冬の花。蕗によく似た光沢のある深緑の葉叢から茎が伸び、鮮やかな黄色の花を上げる。周囲に花の彩りのなくなる初冬の花であるだけに、その色はひときわ目立つ。人家やお寺の境内などでよく見かける花だ。

11月頃の、空気が澄明で、いかにも日差が濃いと感ずる頃、石蕗の黄は葉の深緑にひき立てられて、くっきりと開く。その色彩に何かきわ立ったものを感得したのだろう。花の印象が人物の印象と感応して成ったのが、この句である。

文学者の血筋に生まれた人物が、絵画の方面に才能を発揮して花開いた。その画才は文学の血を一脈受けついでいる。というと、その人の描く絵もおのずから想像ができるような楽しみがこの句にはある。 <和子>



このようなモデルが作者の身辺に居たからできたのではなく、他に彩りの少ない季節に、きわだって咲いている石蕗の花そのものから発想された句であるということに注意しなければならない。

いうならば、フィクションの句ということになるのであるが、その場合最も重要なことは、石蕗なら石蕗という季題がもつ内容と普遍性を真に把握して引き出しているかということにある。

花鳥諷詠俳句のおもしろさはそのあたりにあるといわなければならない。すなわち、何らかのテーマ(表現したい内容)がはじめにあって、それにふさわしい季題を見付けてくる、というのではなく、あくまでこの句の場合は、石蕗の花そのものから抽出されたシチュエイションであり主人公であるということなのだ。

虚子のいう、俳句は季題を諷詠するものである、という考えはまさにこのことなのである。ある季題から詩的真実を抽出し得たときは、その季題は動かない。もし普遍性に欠けるような連想であったとしたら、季題が動くということになるだろう。 <克巳>
          昭和13年作 『松籟』所収
[PR]
# by chi-in | 2004-11-15 12:00 | 冬の句