カテゴリ:春の句( 28 )

言ひつのる唇美しや春寒く     日野草城



  《 いいつのるくちうつくしやはるさむく 》



 季題は〈春寒し〉で春。主人公は作者の妻か、それとも関わりのある女性か(情況の設定はいかようにも考えられるのだが)、何かおさまらないことがあるかして、言葉に怒気を含んで言いつのる。あるいは男の不実をなじる女の体かも知れぬ。

 女は、男の馬耳東風然とした態度にいっそういらだってまた言いつのる。男の視線は半ば相手の言葉を無視しつつ、赤く美しい唇にのみひきつけられている。まるでそこだけ違う生き物のようにも感じられる女の朱唇の美しさ。

 多くの女性を句の題材とした草城の意識下には、この句に見られるような唯美的傾向が見られるように思う。これは一歩ふみ外すと女性蔑視ともうけとられかねない心の動きなのである。「春寒く」という下五がそれをかろうじて救っている。   ( 克巳 )



 この美しい唇は作者に向けられている。今まで抑えていたものを声高に主張しはじめた女の言葉は、とどまるところを知らない。言葉少なにしている時より、この方がずっと生き生きしていて、色っぽい、と男の目は楽しんでいる。男のそんな点こそ、じつは女が最も歯痒く思っていることなのだが。

 「春寒く」は、男女の間に流れている深い溝の存在を、男がどこかに感じているのを暗示しているようだ。草城の若い頃の作品には、こうしてた艶っぽい句が多くみられる。

  < 春の夜や顔あまやかす牡丹刷毛 >
  < 嵩もなう解かれて涼し一重帯 >
  < 後れ毛をふるはせて打つ砧かな >
  < 淡雪やかりそめにさす女傘 >
  < つれづれの手のうつくしき火桶かな >
  < 手袋をぬぐ手ながむる逢瀬かな >


 若い男の軽快な遊び心が書き散らした、という感がないでもないが、大正から昭和の初めに若々しい新風を送ったことも事実。    ( 和子 )


 『花氷』所収。



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by chi-in | 2016-02-15 20:09 | 春の句

蕗の薹喰べる空気を汚さずに    細見綾子



  《 ふきのとうたべるくうきをよごさずに 》



 季題は〈蕗の薹〉で春。「そら豆」「蕗煮る」「烏賊を喰ふ」「青菜」「大根煮る」「菊なます」等々、綾子の作品には食べ物の句がきわめて多い。

 空気を汚さないで食べる、ということは、食べた直後に口中に残るある種の爽涼感、さっぱりとした後味をさしていうのであろう。たとえば大蒜のようなものを食べた後は、こうはいかない。口中にいつまでも匂いが残り、吐く息もまた、あたりに特有の臭さを漂わせるということになる。

 それに対して蕗の薹は、独特の苦みと香りがあり、早春の賜物というべきであろう。食後のさわやかな印象は、「空気を汚さず」という実感につながる。   ( 克巳 )



 みそ汁に蕗の薹を刻んでぱっと散らすと、春の芳香が立つ。それを口にすると口中に香が残る。早春の空気を感じる食べ物だ。「空気を汚さずに」といっているが、新たな空気が匂い立つような感じさえする。

 ものを食べるという行為は、どこか動物めいていて、肉や魚を口にする場合は、こう美しく描けるものではない。野菜や果物にしても、一口で食べられないものは、かぶりついたり、むしゃぶりついたりするということになる。その点、蕗の薹などというものは、一口で口に収まり、しかも一度にひとつかそのかけらを口にするだけで、食べたという気がする。「空気を汚さずに」ということの中に、空気を乱さぬことまで含まれていよう。

 蕗の薹を刻むと、空気に触れた部分が見る見るうちに茶色に変色してゆく。蕗の薹は空気に触れてさえ汚れてしまう山菜、というのが私の印象だ。   ( 和子 )



 昭和37年作。句集『和語』所収。


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by chi-in | 2015-03-07 19:54 | 春の句

天平のをとめぞ立てる雛かな     水原秋桜子


  《 てんぴょうのおとめぞたてるひいなかな 》



 季題は〈雛〉で春。「ひいな」と三音に読む。天平時代の乙女が立っているようなお雛様であることよ、の意。天平のおとめとは、どんな様子なのだろう。「冠もなにもつけぬ、日常のままの天平時代の少女の立ち姿が、一尺くらいの柔らかい材に彫られ、それに淡彩を施してあった」と作者は記す。素朴な木彫雛を詠んだものであろう。何の飾りもつけていないところに心惹かれたのである。

 私はこの句に、秋桜子が京都よりも奈良にたびたび足を運び、奈良の古寺や仏像に親しんだゆえんを見る思いがする。平安時代の女性を模した豪華な雛よりも、天平のおとめの面影を見る立雛を、好もしく思う作者なのである。

 後にこの雛を買わなかったことを悔やんだと聞くが、この一句によって、雛は手元に置くよりもたしかに秋桜子のものになったといえよう。    ( 和子 )



 「ぞ」という係助詞の働きで、天平という時代に対する作者の思いと、きわめて素朴で飾り気のない立雛のありようが強調されている。木彫雛の句は大正13年に、

   遠つ世の面輪かしこし木彫雛     秋桜子
   はしきよし妹背ならびぬ木彫雛
   衣手の松の色栄え木彫雛


の三句がある。素朴な木彫の立雛は、秋桜子の心にかなっていたのであろう。

 葛飾といい、真間といい、天平といい、秋桜子には万葉時代がきわめて身近に感じられていたもののようである。その時代性ともいうべき素朴さの中ににじむような美しさに心をとめていたということであろうか。

   立雛は夜の真間にも立ちつづく      秋桜子

という句を昭和46年に得ているが、立雛という清楚な美しさを終生いとしみ続けた秋桜子の人柄が感じられる。   ( 克巳 )



 昭和3年作。『葛飾』所収。



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by chi-in | 2015-02-12 20:20 | 春の句

青天に音を消したる雪崩かな     京極杞陽



  《  せいてんにおとをけしたるなだれかな  》



 季題は〈雪崩〉で春。作者の眼前には純白の雪におおわれた山塊が立ちふさがるように聳えている。音の全くない静かな時が流れるーーー。突然、白銀の一角が剥がれるように崩れると、大音響とともに厖大な雪の塊が、白煙を上げて谷を目がけて殺到する。

 まるでスローモーションの画面を見ているようだ。雪が雪を誘い、岩をまき込んでゆくその音は、やがて青い澄み切った空に吸収されるように消え去り、雪面に大きく抉ったような傷跡を残しながら、再び山塊は前よりもいっそう深い静寂につつまれるのである。

 この句は、雪崩という自然現象を、青と白の二色を用いて単純化して描いている。青と白のコントラストは、静と動、静寂と大音響という対立をも暗示しているのである。無駄な言葉を一切用いずにすっきりと表現されているが、この句は、あるいは題詠の句かもしれない。    ( 克巳 )



 この句、私には初めから終りまで音が聞こえてこない。音が届かないほど遠くか、あるいはガラス戸越しか、ともかく全く音のない世界で、雪崩の一部始終を見届けた句として印象した。

 「音を消したる」は、今まで轟きわたっていた音を消したという意にも取れるが、音というものを全く消した雪崩、とも取れよう。「たり」は動作の完了でもあるが、状態の存続でもある。

 すると、それほどの遠景となるので「青天」が広がってくる。雪煙も見えてくる。それでいて作者にも読者にも、何ら危険は迫らないのだ。   ( 和子 )



 昭和12年作。句集『くくたち』(上)所収。



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by chi-in | 2014-04-17 20:25 | 春の句

雪解川名山けづる響かな    前田普羅


  〈 ゆきげがわめいざんけずるひびきかな 〉


 季題は〈雪解川〉で春。「雪解川」「名山」そして「響き」と、重厚なひびきをもった名詞が連なる、格調の高い一句である。「名山」は名高い山ということで、特定する必要がないので漠然とこのように言い放ったのだ。一冬かけて山国に積もった雪が、解けはじめる春先は、山々にとってまた新しい季節の到来でもある。

 山肌を深々とえぐって流れ落ちる雪解川の水量にははかり知れないエネルギーが秘められている。そのような莫大な質量に対し、決してひけを取らない普羅の作句に対する姿勢というものが感じられる一句である。   ( 克巳 )



 この句はまさに簡素にして雄勁といえよう。「名山」の呼称がいい。読み手はそれぞれの心の中に浮かぶ堂々たる名山を特定すればよい。身をけずって流す雪解の水は、年々その容貌を厳しく、近寄り難いものにするに違いない。この句を見ていると、名山の相は、一日にして成るものではないことに思い至る。

 普羅は「地貌」というものに非常な興味を抱いていて、それは「地球自らの収縮と爆発と、計るべからざる永い時てふ力もて削られ、砕かれ、又沈澱集積されたる姿である」ととらえていた。この句にはそうした眼力が感じられる。   ( 和子 )



 大正4年作。『新訂普羅句集』所収。


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by chi-in | 2014-03-06 20:14 | 春の句

鞦韆は漕ぐべし愛は奪ふべし       三橋鷹女



  《 しゅうせんはこぐべしあいはうばうべし 》



 季題は〈鞦韆〉で春。蘇東坡の「春夜」の詩に、

 〈春刻一刻値千金 花有清香月有陰 歌管楼台声寂々 鞦韆院落夜沈々〉

とある。古来、中国の宮嬪たちが、春の遊戯をして楽しんだという。日本名は〈ぶらんこ〉。古語では〈ふらここ〉〈ゆさはり〉ともいった。従ってこの季題は、子供達の遊具のぶらんこという認識だけでは十分でない。宮廷の女たちが裳裾を翻して鞦韆を漕ぐ様に、天翔る天女を想い、艶なる情趣を感じていた背景を思うと、より豊かな世界が広がってこよう。時は春。当然そこには恋の雰囲気も漂う。

 この句、齢すでに五十を越えた作者の年齢を考え合わせると、自身への意思表示というよりも、恋の季節の只中にある次の世代への心の呼びかけとして味わいたい。この句を思う時、私はいつも「命短し恋せよ乙女」の歌がきこえてくる。人生は短いのだ。鞦韆は思いきり漕ぐべし。積極的に生きるべし。春は短い。老いはすばやくやってくる。   ( 和子 )



 歌人与謝野晶子はわが肉体を賛美し、ゆく春を惜しんだ。

 〈 春みぢかし何に不滅の命ぞとちからある乳を手にさぐらせぬ 〉

しかし俳人鷹女は、鞦韆をこぐのにためらうな、愛に優柔不断は禁物であると喝破している。短歌と俳句の本質的な違いがここにあきらかである。   ( 克巳 )


 昭和26年作。『白骨』所収。




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by chi-in | 2013-03-15 20:25 | 春の句

舞姫はリラの花よりも濃くにほふ    山口青邨

  《 まいひめはりらのはなよりもこくにおう 》



 季題は〈リラの花〉で春。ライラックともいう。昭和12年、45歳の青邨は客員研究生としてドイツにおもむき、ベルリン工科大学で2年ほどの研究生活を送った。この句はその時の作品。
 
 北の国々に遅い春がおとずれると、すぐに新緑の季節となり、さまざまな花が咲き乱れる。薄紫の花房が淡い芳香を漂わせるリラもそのひとつ。

 時折遊んだキャバレーの踊子と酒盃をかたむけながら、話に花を咲かせる。日本からの旅人には、彼女たちの身の上話やら何やらとても興味深いのだ。若くて美しい踊子たちはまさに舞姫と呼ぶにふさわしい。リラの花のように紫に翳るアイシャドー。ときめくような唇。しかし、彼女たちの体臭はリラの花よりもっともっと濃く匂う。その匂いにもまた作者は遠い外国にいるのだという思いを深くしたに違いない。 ( 克巳 )


 
 「舞姫」という言葉からは、森鴎外の小説を思い出す。日本の若き学士の心をとりこにした、美しい西洋の舞姫をこの句から想うのは、〈リラの花〉という季題の故である。異国情緒にあふれるその花の名と香り。そのリラよりも「濃くにほふ」という印象の舞姫とあらば、おのずと金髪の、青い瞳の西洋の女性が思い浮かぶ。この「匂い」は、大衆と脂粉と香水の入り混じったものだが、華やかな女の象徴でもある。エキゾチックな気品も漂っている。

 この句を写し取る時、中七の字余りが気になった。「も」が無くても意味は同じで形は整うのだ。しかし、この字余りの句調が、舞姫の堂々たる存在を強調しているのである。 ( 和子 )



  昭和12年作。『雪国』所収。
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by chi-in | 2012-04-18 19:19 | 春の句

外にも出よ触るるばかりに春の月      中村汀女

 


  《 とにもでよふるるばかりにはるのつき 》



 外に出てごらん、触れるような近さに大きな春の月が出ているよ、と呼びかけている句。家の中にいる子供達にであろうか。

 出たばかりの春の月は、黄色くて大きい。その近さ、美しさに驚いた作者は、すぐさま奥に声をかけた。「来てごらん、きれいなお月さまよ」。雨戸を閉めるところだったのだろうか。窓辺の母の許に家族の顔が集まる。

 暖かな春の満月の夜。人が幸せを実感するのは、こんな時ではないだろうか。きれいなもの、貴重な時を共有しているという思いが、家族ひとりひとりの心を温める。どこの家でもありそうな情景、どこのお母さんでも口にしている言葉、どこの子供達にも覚えのある体験。それ故に懐しい。家族がみんな揃って夕食を食べるような時期にしか、こういうこともないのだから。  ( 和子 )



 長い戦争がやっと終って、新しい気持でみたされている詩人の心の弾みが、思いがけない近さにかかった大きな春の月に触発されて一句をなした。自注によれば、ある集まりからの帰り際に見た春月を詠んだ句で、まだ残っている仲間に向かって呼びかけたものという。女性特有のゆたかな情念に普遍性があり、自分と心を同じくするものへの広い呼びかけとも感じとれる。

 まだ夜気は冷たいが、家並の上にぽったりとのぼった月は、まさに春そのものの光をたたえている。「触るるばかり」というとらえ方にも、女性特有の感受性がみられよう。 ( 克巳 )


  昭和21年作。『花影』所収。
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by chi-in | 2012-03-16 20:24 | 春の句

春寒やぶつかり歩く盲犬    村上鬼城




   《 はるさむやぶつかりあるくめくらいぬ 》


 季題は〈春寒〉で春。鬼城にはこうしたあわれな小動物や、生き物の老残の姿がことさら目にとまり、心にかかったものと思われる。

 こうした興味の持ち方は類想を呼びやすく、「世界が極めてせまい」「句の調子の低さ」(山本健吉評)といった批判も受けた。しかし、一作者の一生涯の代表句の陰には、あまたの類想があって然るべきだと私は思う。そうした存在に目も心も注いでいたからこそ、残る一句も得られたのだ。
 
 この句は「春寒」の季題に救われていることを味わいたい。春寒の感じを、雑踏の中を人々にあるいは立木に、町なかの雑多な物にぶつかりながらも歩いてゆく盲犬の姿を描くことによって表現しているのだ。  ( 和子 )



 この句の盲犬は、いろいろなものにぶつかりながら歩いている。どこか目的があるのだろうか、はた目にはただ歩き回っているようにも思われる。おそらく成犬になってから何かの原因で失明してしまった犬に相違ない。

 すべての弱い立場の生物に、己の生きざまを投影してそれを作句のテーマとしたのが鬼城俳句といえる。そのような句の中には、作者の感情が浮き上がってしまって、第三者に感動を与えるまでに昇華していない作品が多いことは否定できない。しかし、多くの類想句のなかから際立った佳品を取り出し得たとき、類想句の山は、それで大きな意味をもつのである。   ( 克巳 )



  大正6年作。『鬼城句集』所収。
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by chi-in | 2012-02-08 19:15 | 春の句

隠岐や今木の芽をかこむ怒濤かな      加藤楸邨


    《 おきやいまこのめをかこむどとうかな 》


 季題は〈木の芽〉で春。後鳥羽院の配流の地としての隠岐島にひかれて楸邨はこの地に遊んだ。この句はその折に、院の火葬塚を訪ねた時の作である。島全体を鳥瞰するような高さに視点を置いて、風景を凝縮するような捉え方をしているところがこの句の特色であろう。

 木の芽時の美しい緑の島の周囲を真っ白な波濤が囲むように広がっている。この緑と白のコントラストは美しく印象的である。「木の芽」という小さなものと、怒濤という大きな広がりをもったものを一句の中できわめて近接したものとして結びつけている手法は、ある意味で現在の映像処理の技術に通じる新しさがある。
 
 「隠岐や今」の今という一字には、後鳥羽院と楸邨を強く結びつけている何かを感じとっている作者の心の高ぶりが感じられる。

  〈 水温むとも動くものなかるべし 〉

は同時作である。    ( 克巳 )



 「後鳥羽院のかゝせ給ひしものにも、これらは歌に実(まこと)ありて悲しびをそふるとのたまひ侍りしとかや。さればこの御ことばを力として、その細き一筋をたどりうしなふことなかれ」という芭蕉の言葉を呪文のようにして、楸邨は隠岐へ旅立ったのだった。「隠岐紀行」にはその旅の諸作百九十余句が見られる。

   さえざえと雪後の天の怒濤かな
   東風の濤谷なすときぞ隠岐見え来
   春怒濤巖喉あげてゐたりけり
   炎だつ木の芽相喚ぶごとくなり
   その日萌え今日萌え隠岐の木の芽かな
 
 
 こうした諸作の果てに、最後に訪れたのが御火葬塚だった。隠岐を離れる時に、この島の自然を詠んだ句が、自然にできたのだという。「自分にしては素直な句だと思った」と楸邨自身語っている。   ( 和子 )


 昭和16年作。句集『雪後の天』所収。
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by chi-in | 2011-04-08 21:06 | 春の句