人気ブログランキング | 話題のタグを見る

葛城の山懐に寝釈迦かな   阿波野青畝

《かつらぎのやまふところにねじゃかかな》

 季題は<寝釈迦>で春。旧暦2月15日の釈迦入滅の日に掲げる涅槃図に描かれた寝姿をいう。そのまわりには弟子をはじめ、禽獣虫魚に至るまで、この世の衆生が嘆き悲しんでいる。
 
 葛城山は大和の山。<春楊葛城山に立つ雲の立ちても坐ても妹をしぞ思ふ> と、古歌にもあるごとく、このあたりは雲が湧き霞が立ちやすい土地である。この山懐のどこかに釈迦がゆるやかに身を横たえ、霞がかった野の景をまぶたに宿して衆生済度を思っている……。何と心安らぐことだろう。

 「葛城の山懐」は春霞に包まれた優しく深い懐である。そこに在す寝釈迦、という存在感を深めているのが「に」という助詞である。これがもし「葛城の山懐の」であったら、寝釈迦の特定がなされるばかりで、存続性はなくなってしまう。 <和子>


 葛城は金剛と並びたつ名山で、役小角(えんのおづぬ)が入山して修行したので修験道の道場として知られる。

 寝釈迦は涅槃図の中で、死の床に横たわる釈尊を描いたものであるが、この句の場合、その涅槃図そのものは完全に句の表面からは消去してしまい、釈迦の寝姿のみにスポットを当てた大胆な省略の句であるとするのが一般的である。確かにそれはその通りであるとは思うが、私はこの句の寝釈迦は、むしろ涅槃仏の金銅の彫像をイメージした句ではないかと考えている。背景の深い緑に包まれて金色を放つ涅槃仏を描いた日本画を見た記憶がある。私はこの画家はきっと青畝のこの句からヒントを得て画面を構成したに相違ないと考えた。あるいは事実は逆であったかもしれないが。 <克巳>
   昭和3年作。『万両』所収。
by chi-in | 2008-02-22 22:38 | 春の句
<< たヾならぬ世に待たれ居て卒業す... 手毬唄ここのつ十はさびしけれ ... >>