枯蓮のうごく時きてみなうごく   西東三鬼

《かれはすのうごくとききてみなうごく》

 季題は<枯蓮>で冬。自註によれば、秋元不死男と共に薬師寺に遊んだ折の作品。この一見何の変哲もなさそうな句は、作者の言を借りれば、彼の戦前の作風を全く転換させる機縁になった作品であり、一句のために一時間も池の端に佇ちつくした結果得られたものだという。
 池一面に襤褸の様相を呈してたたずむ枯蓮。しなやかさをすっかり失い、自ら動くことを止めてしまった黒い影の乱立。しかし時折吹きおこる風のために、規則に従うかのような微動をはじめ、その動きが、池の面をおおいつくしているすべての枯蓮の動きへと連動してゆく。

「うごく時きてみなうごく」というありふれた表現の根底にはきわめて正確な写生の眼を感じる。彼の作品のバックボーンをなす写生力が、この句などにはすでにはっきりと認められる。<克巳>


 吹かれるのでもなく揺れるのでもなく、枯蓮自体が動いたと見えたところにこの句の手柄はあると思う。しかも動く時がきたから、時期の到来に従って動いたのだ、と感じた点、三鬼独自の思いが、通っている。
 そういわれてみると、枯蓮のうつ向いたまま突っ立っている姿は、何もかも枯れ尽くし忘れ尽くし失い尽くしたようでありながら、何かの時を待っているようにも見えてくる。
 三鬼自身には、枯蓮はうつむいて悲歎に堪えている人間に見えてきたのだという。「数百万の人間を死なせた戦争の直ぐあとですから、私にそう見えたのも当然でせう。」こうした時代背景を考えに入れると、鑑賞の幅はますます広がる。<和子>
   昭和21年作。句集『夜の桃』所収。
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by chi-in | 2007-12-20 21:02 | 冬の句
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