湯豆腐やいのちのはてのうすあかり  久保田万太郎

季題は<湯豆腐>で冬。どこの家でも寒い季節には一度は食卓にのるポピュラーな簡単な献立である。この淡白で単純で、しかも微妙な味わいとこまやかな舌ざわりを楽しむ冬の料理に託して、人生の感慨を洩らしている点がユニーク。最晩年の作である。

作者にしても晩年意識の濃い日常であったことだろう。淡白な味わいの湯豆腐を平和に食しながら、自分のいのちのはてがうすうすと明るんでいることを実感したというのである。

「うすあかり」には、安堵や救いもあろうが、むしろそこはかとない淋しさを感じる。「いのちのはての」という言いまわし、様々な曲折のあった、今までの長い人生を感じさせる。どぎつい事柄や暗黒の時代を生き抜いてきた末の「湯豆腐」であり、「うすあかり」である点を味わいたい。 <和子>




万太郎という男は、あるいは人生の裏も表も知り尽くした権謀術数の人であったかも知れない。また深慮遠謀によって社会的地位を築き上げた人かも知れない。それゆえにこそ晩年にたどりついた境地は、深いかなしみにみたされているように思われる。淡々とした表現の底にたぎる熱い涙が感じられる。

同じころの作品の、

   鮟鱇もわが身の業も煮ゆるかな

がおどろおどろしい内容を詠んでいるのにもかかわらず、穏やかな諦念すら汲み取れるのに対して、この<湯豆腐>の句にはかえって深い作者の業が滲み出ている。 <克巳>
         昭和38年作  『流寓抄以後』所収
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by chi-in | 2005-12-15 00:00 | 冬の句
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