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秋風や模様のちがふ皿二つ   原 石鼎

季題は<秋風>で秋。この句には長い前書がある。
「父母のあたたかきふところにさへ入ることをせぬ放浪の子は、伯州米子に去つて仮の宿りをなす」
というのである。句集『花影』に付された詳細な自記年譜によると、大正2年、吉野を去った石鼎は、山陰の「海近きあたりをさすらへる時代」を送る。その頃の作。

放浪生活のありのままを言ったのが「模様のちがふ皿二つ」であろう。どんな生活にも衣食はついてまわるもので、食べ物を盛る器は必需品である。だが、それが模様の違う皿二つとは、何と侘しいことか。揃いの皿であったものが、ひとつずつになって手元に至った経緯なども、家事に携わる身としては、おのずから思いが及んでしまう。半端物の皿がふたつ、作者の食卓にはあるのみ、ということだ。叙法はさりげないが、「秋風」には作者の万感の思いが託されている。 <和子>



この句は前書つきで読むときと、それを外して読むときではかなりの差異を生じる。「放浪」とか「仮の宿り」という前書の文句なしで読むと、この句はむしろ作者の生活のセンスの一端を思わせる。この皿の模様も、ありふれた草花などの模様ではなく、個性的で洒落な絵皿を思い描くことも不可能ではあるまい。

ところが前書に従うと決してそうは読めない。食卓に並べられた二枚の皿は大きさも絵柄も全く異なっている。しかし、共通するのは、その皿を前に作者が人生の憂愁にうちひしがれたり、落魂の思いをかこっているようにはどうしても思われないことである。ということは、この一句には、作者の前向きの強い精神力がこめられているということだろう。それはさすらいの中にも明日を模索しようという若い心である。 <克巳>
          大正三年作 『花影』所収
by chi-in | 2005-09-15 00:00 | 秋の句
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