去年今年貫く棒の如きもの   高浜虚子

季題は<去年今年>で新年。<去年>或いは<今年>だけでも季題となる。『後拾遺集』の小大君の歌

   いかにねておくるあしたに言ふ事ぞきのふをこぞとけふをことしと

が、この季題の本意といえよう。

昨日を去年といい今朝を今年という、そんな時の流れの中にあって、貫いているものは変わらない、というのである。それはいわば棒のように変哲もなく、まっすぐで、年が改まったからといって改まることもない。実生活も、信条も、棒のようなものです、と言い放って憚らぬ大人の声が聞こえてくるようだ。このふてぶてしいまでの揺ぎない人生態度には讃嘆を禁じ得ない。 <和子>



虚子の、年の暮の句に、

   年は唯黙々として行くのみぞ
   年を以て巨人としたり歩み去る

がある。いずれも擬人化表現を用いて、去る年を表現しているのが特色といえるだろう。掲句は、時の流れを暗い混沌としたものとしてとらえ、それを貫くようにして太々とした棒のごとき存在を意識しているのである。きわめて抽象的な認識であるにもかかわらず、説得力があるのは、虚子の自信に裏うちされた一句であることによるだろう。

芭蕉の『笈の小文』の中に、

「西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、其貫道するものは一つなり」

という一節がある。すべての芸術の根本を貫くものは一つ、それは風雅であるということだが、この句の棒のごときものに通じる何かがあるように思う。 <克巳> 
          昭和25年作 『六百五十句』所収
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by chi-in | 2005-01-01 00:02 | 新年の句
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