生くることやうやく楽し老の春     富安風生




  《 いくることようやくたのしおいのはる 》



 季題は〈老の春〉で新年。「房州僑居に数へて八十歳の春を迎ふ」との前書がある。八十歳の作であることを考え合わせると、この「楽し」は前掲の「一生の楽しきころ」の楽しさとは、意味あいが違ってくるだろう。八十歳になって、ようやく生きることが楽しいといえるようになったのは、青年期や壮年期の悩みやさまざまな責任などから開放された安堵が含まれていよう。と同時に、この句の心は市を意識する年代に到ったことも無縁ではないだろう。

 私はこの句に『徒然草』の一節と通いあうものを見る。「人、死を憎まば、生を愛すべし。存命の喜び、日々に楽しまざらむや」「人皆せいを楽しまざるは死を恐れざる故なり。死を恐れざるにはあらず、死の近きことを忘るるなり」(九十三段)

 人はとかく生と死が隣り合わせであるという自明の道理を忘れがちである。ことに若いうちは。老境に入り、この道理を実感するに至って、生きることの本当の重みと楽しさを実感した折の句ではあるまいか。  ( 和子 )



 人に聞いた話である。風生はすでに相当の年のはずである。その風生いわく、「君ね、墨を磨るのは、女陰を撫する如くだよ」と。私はその時、風生翁の年と共に艶を加えている原因が理解できたように思った。風生に具わった艶というものを象徴しているようなエピソードであると思ったのである。

 風生が〈老の春)という季題をしばしば用いるのには大分忠告じみたことが仲間からも、またその伴侶からも発せられたようである。しかし、「老の春」と断言してはばからぬ老境の高さと深さが、作者にはあったことはまぎれもない事実であろう。  ( 克巳 )



  昭和39年作。『喜寿以後』所収。
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by chi-in | 2012-01-11 20:41 | 新年の句
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