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滝の上に水現れて落ちにけり     後藤夜半


 《 たきのうえにみずあらわれておちにけり 》


 季題は〈 滝 〉で夏。句意は明瞭、これ以上つけ加えることもなければ、省くべきものもない。滝そのものをあるがままに詠んだ、客観写生に徹した句である。
 箕面の滝における作といわれ、そこに句碑もあるが、どの滝と特定せずとも、この句は滝一般の本質を描いている。この句を一旦覚えると、どの滝の前に立っても思い出される。滝そのもののありようを詠むには、これ以外いいようがないとまで思えてくる。
 「滝の上に水現れて」とスローモーションの映像のように、滝となる始まりを確認し、あとは一気に「落ちにけり」と続き、終わる。滝が滝である状態の一切がここには描かれていて、それ以外はなにもない。句そのものの姿が一筋の滝のごとく潔く自立している。
 こうした点が、この句が人口に膾炙した所以であり、今もなお読み手の脳裏に鮮やかに滝をかける迫力を持つ所以でもある。  ( 和子 )



 滝というものは莫大な水量の落下の連続である。遠くから滝を望んだ時、それは単なる白い帯でしかないが、間近で凝視観察すると、水の塊が次々と落下してゆく様子が認識される。
 作者の眼は先ず滝頭に注がれる。視野に現われる水の塊ーー。「タキノウエニ、ミズアラワレテ」という調べはゆったりとしているけれども、ある種の緊張感と切迫感がある。それに対して「オチニケリ」の下五は、その緊張を一気に解消してしまうような軽快な響きが感じられる。
 滝は、滝頭に到るまでの水平移動と、滝頭から滝壺までの垂直距離に大きく分かれる。
 夜半の眼は、滝頭の一点でこの水平移動を「水現れて」というようにとらえられている。
 この一句は、誰もがもつ滝という概念をなぞりながら、夜半ならではの写生によって、ダイナミックな滝の本質を描ききることに成功したものである。 ( 克巳 )


  昭和4年作。句集『翠黛』所収。
by chi-in | 2009-06-01 15:06 | 夏の句
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