とどまればあたりにふゆる蜻蛉かな   中村汀女



  《 とどまればあたりにふゆるとんぼかな 》



 季題は〈蜻蛉〉で秋。夫の横浜税関への転勤にともない、大阪から住居を横浜に移した頃の作品である。

 この句は、t音が基調になったやわらかいしらべの句である。その内容と相俟って、いかにも女性らしいふくよかな感性を思わせる。風に吹かれながら突堤のようなところを散策している作者を想像してみよう。ふと気がついてみると、風にのっていつの間にか蜻蛉があたりに数を増している。その数は、軽い驚きを感ずるほどの多さなのである。しばらく蜻蛉の流れの中に身を置いて佇んでいると、自分の心も秋風の中に解き放たれてゆくように感ずるのである。    ( 克巳 )



 たとえば夕方、子供を呼びに出て、原っぱにふと佇んだ時、ああもう蜻蛉がこんなにたくさん飛ぶ季節になったのだ、と気づく。またたとえば久しぶりに吟行に出かけて、いつもと違う歩調で歩き、句帳をひらいて歩をとめる。そんな時、あたりにしきりに飛び交う蜻蛉の数に今更ながら季節の移り変わりを実感する。

 「とどまれば」は歩をとめると、の意ではあるが、同時に日常生活とは異なる視点をも意味している。何か用事や目的を持ってさっさと歩いている時には目に入らない、気がつかないものが、ふと心の余裕を得てとどまってみると、目に飛びこんでくる。心が和み、視野が広がって、風に乗る蜻蛉にしばし心をあそばせる。

 誰もが体験している日常生活の中にふっと訪れる詩ごころを、そのまま詠いあげている、いわば普段着の詩。   ( 和子 )



 昭和7年作。『汀女句集』所収。



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# by chi-in | 2016-09-14 19:56 | 秋の句

言ひつのる唇美しや春寒く     日野草城



  《 いいつのるくちうつくしやはるさむく 》



 季題は〈春寒し〉で春。主人公は作者の妻か、それとも関わりのある女性か(情況の設定はいかようにも考えられるのだが)、何かおさまらないことがあるかして、言葉に怒気を含んで言いつのる。あるいは男の不実をなじる女の体かも知れぬ。

 女は、男の馬耳東風然とした態度にいっそういらだってまた言いつのる。男の視線は半ば相手の言葉を無視しつつ、赤く美しい唇にのみひきつけられている。まるでそこだけ違う生き物のようにも感じられる女の朱唇の美しさ。

 多くの女性を句の題材とした草城の意識下には、この句に見られるような唯美的傾向が見られるように思う。これは一歩ふみ外すと女性蔑視ともうけとられかねない心の動きなのである。「春寒く」という下五がそれをかろうじて救っている。   ( 克巳 )



 この美しい唇は作者に向けられている。今まで抑えていたものを声高に主張しはじめた女の言葉は、とどまるところを知らない。言葉少なにしている時より、この方がずっと生き生きしていて、色っぽい、と男の目は楽しんでいる。男のそんな点こそ、じつは女が最も歯痒く思っていることなのだが。

 「春寒く」は、男女の間に流れている深い溝の存在を、男がどこかに感じているのを暗示しているようだ。草城の若い頃の作品には、こうしてた艶っぽい句が多くみられる。

  < 春の夜や顔あまやかす牡丹刷毛 >
  < 嵩もなう解かれて涼し一重帯 >
  < 後れ毛をふるはせて打つ砧かな >
  < 淡雪やかりそめにさす女傘 >
  < つれづれの手のうつくしき火桶かな >
  < 手袋をぬぐ手ながむる逢瀬かな >


 若い男の軽快な遊び心が書き散らした、という感がないでもないが、大正から昭和の初めに若々しい新風を送ったことも事実。    ( 和子 )


 『花氷』所収。



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# by chi-in | 2016-02-15 20:09 | 春の句

ねんねこやあかるい方を見てゐる子   京極杞陽


  《 ねんねこやあかるいほうをみているこ 》



 季題は〈ねんねこ)で冬。最近は見かけることが少なくなったが、ひと昔前まではねんねこは子育ての必需品だった。綿入れの、どてらの背中の部分がたっぷりと作ってあるような防寒着で、冬には赤ん坊をおんぶした上から着ると、とても暖かいものだったが。

 しかし、けっして見場のいいものではない。あれを着ると子育てにどっぷり浸りきって、お洒落ごころのかけらもなくなったような気がして、私自身も、止むを得ない時にしか着た覚えはない。だんだん廃れてゆくのもわかる気がする。

 それはさておき、この句の「子」は、お母さんの背中でじっとしているほどの赤ん坊。その子が明るい方を見ている、という発見は、心を和ませる。別に何を見ているというのでもない。特に心引かれる何かがあるというのでもない。しかし、さっきから見ていると、母親の動きや向きにかかわらず、自ずと明るい方へ顔をむけている。   ( 和子 )



 電車の中でも公園でも、母親に抱かれたり、乳母車にのせられたりしている幼児の眼の動きには興味をひかれることが多い。赤ちゃんがけっして暗い方を見ようとはしないのは当然といえば当然である。なぜなら、彼の眼底に何も映らないからだ。この句の赤ちゃんも、ねんねこにくるまりながら、その視線は絶えず明るい方に向けられて、何かを見ようとする。赤ちゃんの成長過程にもよるだろうが、彼らは四囲の動きを観察しているかのごときである。目に映ったものを実に入念にチェックしているようにその澄んだ瞳が動く。

 いったん彼の網膜に映った物のかたちをはっきりと認識し、記憶にとどめておこうといわんばかりの知識欲のかたまりといった小さな生き物ーーーそれが赤ちゃんだ。

 この句の子も、しっかりと何かを観察しているのかもしれない。  〈克巳 )



 昭和16年作。句集『くくたち』(上)所収。



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# by chi-in | 2015-12-04 18:41 | 冬の句